エタイさんは、幼少期の象徴的暴力体験を基盤とする女性不信と覗き行為への耽溺を経て、社会人期の挫折と対人衝突、SNS上の騒動をくぐり抜け、自助グループ(SCA/SA/EA/OA 等)と信仰の実践によって回復の道を歩む男性である。語りは一貫して「自分には取り戻すべき自我が最初から育っていない」という感覚を軸に展開し、自己の存在を「モノ以下」と感じる自己像の再編に挑む内的プロセスが中心テーマとなる。
1983年、東京都足立区で生を受け幼稚園に入る前に埼玉県に移り住む。3人兄弟の長男。幼稚園の頃には何か一つのことにこだわる傾向があったという。様子がおかしいと感じた母親が保健所を何軒もハシゴしたらしいがどこへ行っても大丈夫だ心配ないと言われ、(2025年現在からみれば)発達障害を見過ごされてしまった。このことが小学校で取り返しのつかない禍根を残すことになった。
アレルギー性鼻炎とASDの特性の悪魔合体により鼻をほじるチックがあったことから、小1の頃から学年の女子ほぼ全員から露骨に避けられて汚物扱いされる。席替えで隣の席になった女子に泣かれ、他の女子が慰めに来ることもあった。また、行動が目についたのか当時50代の担任のババアに目をつけられて教室の後ろや前に立たされる体罰を受け、大声で泣くことも珍しくなかった。しかし、怒りや悲しみの感情を露にするとその反応を面白がられていじめられることが多く、いつしか感情を出さないようになっていた。自分を出すことが許されなかったので人の名前を呼べなくなり一人称までも失ってしまった。小2の頃にはすでに「女は信用できない、女は敵だ」との女性(女子)全般への憎悪を明確に持っていた。
学校では極度の緊張状態がデフォルトだったためか、粗相をすることもあった。そういう時期にクラスの女子が授業中に粗相をしてしまったのをたまたま目撃したことで性癖が決定した。
小2の頃、母親に仕事で連れられた大型百貨店で仕事が終わるまで待っているように言われたが、待てずに泣き出して迷子扱いとなった。弟2人は泣かず自分だけが泣いていた。親に捨てられた感覚だった。
小中9年間、唯一ひとりだけ私を一貫して人間扱いしてくれた女子がいて、彼女を中心とした女子グループと小3の頃に大縄飛びで遊んだことがあった。そこで私が失敗したのだがそれを周りから責められ(ているように感じ)、その場で泣きながらゲロを吐いた。
後述するが彼女には私のアディクションが一度だけバレている。
学年が上がると担任は替わったが、小3の頃の担任からも体罰を受けた。当時、体育館で実施された全校集会はビデオに撮られて給食の時間に教室備え付けのTVで放映されていたが、ある集会の放映に私のくしゃみが収録されてしまっていたことからクラスで笑いものになり、くしゃみしたことを担任に責められて往復ビンタされた。また、音楽の授業で何人かが悪ふざけしたことを連帯責任で反省させられた際、ある女子から私に責任をなすりつけられたこともある。
女子からのいじめは、この頃にはモーゼが海を割るように露骨なまでのヘイトを受けていた。床に落とした私物を汚物扱いで拾われたりすることもあった。自分だけが机を隣の女子から離され、給食など4人で班になる時すら自分だけが机を離され、同学年の間では「エタイは汚い、だから机を離す自衛が必要」との暗黙の了解が罷り通っていて、それは男子も(そこまで露骨に机を離されることはされなかったが)例外ではなかったのでそれを注意する者は誰もいなかった。この露骨な差別に気づく教師は一人としていなかった。
小4の担任は無能だったため学級崩壊していた。そのため、スクールカーストでどちらかといえば中の下だった幼馴染すら私をいじめる方向に回った。女子によるいじめは前述のものが通常運転だったが、男子からのいじめも性的なからかいが多くなった。ストⅡの春麗やキャミイになぞらえるようなからかいをされる等、当時流行のゲームの女性キャラになぞらえさせられる象徴的ないじめが主で、変態扱いされることが少なくなかった。
担任もろともいじめられていたので誰も相談できる相手はいなかった。自身も担任いじめに加担しようとしたことがあるが実行に移さなかった。いじめられた担任は授業中に泣き出しその場で授業が中断したこともあるが、誰も担任に駆け寄る者はいなかった。おそらく児童側からは謝罪も何もなかっただろう。
小5 - 6の担任は体育会系の男性だった。女子の転校生に惚れ、体育の授業で彼女の後ろを走るようにしたら担任に言いつけられてこっぴどく怒られ、翌日は怒られないように彼女を抜いたら意味不明な告げ口をされて怒られた。人生初の冤罪である。
彼女は元々パリピだったので相手にされなかった。
また、学校に更衣室はなかったのでプールの着替えは6年間ずっと教室で男女一緒だった。彼女と席が近かったこともありたまたま全裸が見えてしまったことがある。
この頃になると女子からのいじめは陰湿なものになっていた。家庭科の調理実習では女子の間で「エタイに食品を触らせるな」とお触れが回って徹底され、男子は女子の総意を汲み取って我関せずの空気を突き通し、班の中で孤立させられる形で授業への参加を拒絶された。このいじめに担任が気づくことはなかった。同様に、食べ物に関することは私が触れることを許さない空気がクラスで罷り通っていた。そのくせ給食の時間は体の良い残飯処理班にさせられていた。私が感情から逃れる生存戦略として食べることが確立していたため、断る発想は最初からなかった。
小5当時流行っていたアニメ「こどものおもちゃ」にコンドームなるものが登場。それが何かを知らなかった私はクラス中で「コンドームって何?」と聞きまくった。
それを見ていた担任がその日の道徳の授業を急遽、性教育に変更した。授業終了後、私は多数の男子から「お前のせいで(先生がいない)自習の時間が潰れただろ、ふざけんな」と責められて総スカンを喰らった。
―――要するに、小学校6年間は一貫して汚物扱いだった。
気がついたら小3の頃には女子トイレを覗くようになっていた。なぜそうしたかは憶えていない。ただ、それが自分の生存戦略だったことは間違いなかった。友達はおらず、覗きへの耽溺が始まった以後は一人で花壇の土をいじって遊び、覗きだけが唯一の心の癒しだった。
小5の頃に一度だけ、私を人間扱いしてくれたその女子にアディクションがバレたことがある。しかし彼女はそれを恐らく誰にも言うことなく黙っていてくれ、また中学卒業まで彼女の私に対する接し方が変わることはなかった。しかし、大縄飛びで遊んだ当時の出来事で「女性全般を信頼する最後の砦」としての彼女を失うことになってしまった故に、私が彼女を信頼することはなかった。
緊張状態があまりにも強すぎたため、アディクションが覗きにとどまらなかった。一人で不快な感情から逃れる方法は、給食を何度もおかわりして給食大王ポジションを手に入れること、その延長線上でスーパーの試食を食べ尽くすことが日常になっていた。また休日にはエロ本を立ち読みすることがライフワークとなり、近所のコンビニの店員のおばさんに目をつけられてそのおばさんと私の母親が顔見知りになってしまった。学校では試食とエロ本立ち読みの所行が学年中で有名になっていたことから更に居場所を失った。
以後、休日に自転車で遠方へ出かけてエロ本が立ち読み可能な書店巡りをライフワークとするようになった。立ち読みするエロ本の種類も当時コンビニでよく売られていたスコラ*1やアクションカメラ*2などから月刊ドント*3、さらにマニアックなエロ雑誌にシフトして遠出することが多くなった。これが私のサイクリストとしての原点になっている。*4
この頃、昔あったコンビニでの覗きが店員にバレて警察に通報されて補導ののち両親から叱責される。母親からは「育て方間違えた」と言われ、父親からは「お前は病気だ」と言われる。家からも居場所が完全になくなった。その後、母親からは外出の際に「変な気起こすなよ」等と釘を刺された。
父親からは教育虐待を受けていた。小さい頃から鉛筆の持ち方を矯正され、字が奇麗でないと咎められた。キャッチボールは最初から苦痛でしかなかった。それもあって父親が家にいる日曜日は一日中外出してエロ本と試食探しの旅に拍車がかかっていた。褒められたことはない。理不尽に怒られることも多く、兄弟3人とも何かにつけてげんこつされていた。父親が家にいること自体が苦痛でしかなかった。後年にはげんこつしすぎて手の骨が折れたなどとほざいていた。知るかボケが。
発達障害の私が苦しめられてるのを見て反発してヤンキーになったのが上の弟で、上二人を反面教師にして上手いこと(といっても不健全だが)すり抜けたのが下の弟である。一番上の私がすべての犠牲になった形である。
高校受験の際も推薦で落ちた時には「計算通りだと思え」などという意味不明なことを言われていた。
父親からの教育虐待の最たるものは娯楽を封じることにあり、その主たるものが自分がゲームを独占することにより子供にゲームをやらせない圧力だった。まず自分がやりたいゲームをやり、そのおこぼれを弟たちがあずかり、大抵自分は最後だった。そして父親がゲームをやり終えればファミコンとスーファミのACアダプタ(電源)を隠されて兄弟がゲームできないようにし、ゲームボーイは家から持ち出すなどゲーム管理が悪い方向に徹底していた。我々兄弟が電源を探し当てれば隠し場所を変え、それに対抗すべく弟たちは自前で電源を買ったりした。しかし私は上の弟には何度も金をパクられていた。高校生くらいまでそれは続いた。それもあって小学生時代から金欠だったので電源が買えず、弟たちがいない隙を見て勝手にゲーム機(主にGBポケット)を借りて自分のゲームをやったりしていた。弟には何度も怒られた。家でゲームができなければゲーム屋の体験コーナーに刺さっているカセットを抜いて自分のカセットを持ち込んでゲームしていた。店員にバレて怒られた。学校では聖剣伝説2が空前のブームだった時代である。
また、父親は自分が不要だと思ったものは他人の物でもすぐに捨てるタイプの人間だった。少ない小遣いで毎月買っていたコロコロコミックを勝手に捨てられたことなど一度や二度ではない。私の小遣いの使い道が主に漫画だったのもゲームを買えなかった理由の一つであるが、捨てられた漫画の買い直しで小遣いが飛ぶこともあった。父親に捨てられたものを取り戻すことが小遣いを圧迫していたことは間違いない。
また、日曜日の昼間などは家庭団欒の場で熱湯コマーシャルを見ていたり、サービスカットありのRPG(セガサターンに多かった)のプレイでラッキースケベシーンを見せつけられていた。これが後に、覗きに耽溺していながら二次エロを嫌悪(学生時代の一時期だけではあるが)して同人やコミケを食わず嫌いする一因になったと考えられる。
小学校低学年から、人の名前を呼べない・一人称を使えないという対人恐怖が顕著だった。対面では「俺/僕」が使えず「自分」に退避し、現在でもSNSではしばしば「ワイ」を用いるなど、主体を名乗ること自体への羞恥と恐怖が恒常化した。これは、存在そのものが拒否・嘲笑・排斥に晒される予期(予期不安)と結びつき、他者接触を「存在否定のリスク」と等置してしまう学習の早期定着を示している。
女子同級生や女性教員によるからかい・嘲笑・冷笑的態度、実技授業での扱いなど、身体的・精神的暴力に先立つ言外の評価下げ(象徴的暴力)が芯に残った。本人の主観では「人間扱い以前に、モノとしてもカウントされない」感覚が形成され、尊厳の出発点が失われた。 この「モノ以下」感は、のちの性行動様式を規定する決定因となる。一般に“性犯罪=他者のモノ化”と表現されるが、本人の自己理解では「自分をモノ“未満”から、せめてモノへと“昇格”させる生存戦略」として覗きが成立した、と位置づけられている。
小学校高学年になるにつれ、羞恥・恐怖・承認飢餓が高まる中で覗き行為が反復される。「罪悪感が育たない/感じにくい」ことへの困惑と、「やめたいのに最初の一杯が“いきなり覗き”」という構造(一般的な性依存に見られる段階的導火線=ポルノやマスターベーション→アプリ→出会い…が介在しにくい)ゆえ、回避可能な外的トリガーが特定しづらい特徴があった。 当時の自己像は「自分を保障する外枠=自我」がないまま恐れと渇望で駆動し、“見られるに値しない自分”が“見る側”に回ることで一時的に主体感を捏造する、という矛盾した補償行為であった。
中学でも半分は小学校時代の面子だったため、いじめは続いた。科目に英語が入ってきたことから、学習内容をいじりやいじめに使われることが多かった。現在進行形を習うと「I am playing SEX!」と耳元で囁かれて赤面するのを面白がられたりしていた。英語でこれだから保体は言わずもがなである。男子からの変態扱いは女子からのヘイトを助長するものであった。
当時、爽健美茶を飲んでいただけで男子から変態扱いされたこともある。当時は新発売だったことから上半身裸のタレントが胸をこんな具合に隠してCMソングを歌うという刺激的なものだった。クラスの男子の間で瞬く間に変態のレッテルを貼られた。*5
そういった背景から、別の小学校から来た話したこともない別のクラスの女子からも露骨に嫌われていた。何も知らないぶん、同じ小学校より別の小学校出身の女子のほうが露骨に私をヘイトしていた。
覗き行為は続いていた。母校の小学校に更衣室がないので児童のプール解放日は体育館で着替えることになっていたが、仕切りも何もなかったので外から覗くことが可能だった。それはすぐにやめたが、小学校時代の補導の経験からトイレ以外を覗くことを模索しており、トイレの足りないイベントを自分の足で探して覗きスポットを開発することに明け暮れていた。
ASDが球技と相性が悪いことを知る由もなかった私は女子モテを期待してテニス部に入部した。しかし部活自体は真面目にやるもののまったく上達せず、知的障害の同級生と組まされて校内最弱ペアとして噛ませ犬になってしまった。後輩にも徹底的に舐められ、最後まで組まされる相手は何かしら障害持ちで余った後輩などだった。
中1の頃、ペアを組んでいた知的障害の同級生が部室の鍵を紛失した責任を押しつけられたことがある。当時3年生は既に引退していて2年生部員がいなかったため1年だけの部活で、まあ恐れるものが何もなかった故の所業なのだろうと思うが、この理不尽さに何もできなかった。
中3夏の偏差値は47だったが、受験勉強に力を入れて地元の偏差値63の進学校に逆転合格した。これには周りが何も言えなかったが、逆に言えば勉強に逃げるしかなかったと言える。
高校では流石にいじめられることはなかったが、問題行動がなくなることはなかった。トイレを覗く以外の性行動を模索しており、男子トイレの個室に籠って女子トイレに聞き耳を立てたり、床ふき掃除のドサクサに紛れて女子のスカートを覗こうとしたりした。なお後者は高2の時の担任にバレて呼び出され、その後体育の着替えが突然男女別になり罪悪感を植え付けられる形となった。
また、休み時間には図書室で借りた時刻表を教室で読むことが日課になっていたが、そのドサクサに紛れて、パンツ丸出しで談笑する女子の前を横切るなど露骨な行動に出ていた。当然バレていた。あるいは自転車がパンクして電車通学の時などは階段での覗きもやっていた。
高校でも部活はテニス部に所属したが、後輩に舐められるのは変わらなかった。
高3の春、中学時代の同級生の女子から話を聞いて信仰を始めることとなった。しかし当時入った組織が人を追いつめる組織だったため、集会に参加せず未活動に近い状態だった。嘘の門限で逃れようとしてあわよくばフェードアウトするつもりだった。しかし当時の先輩に理詰めされ、もしかしたら訴えられるかもしれないとの恐怖で信仰を続けるのを断ることができず、そのまま信仰を続けることになった。
大学時代はコミュニケーションが上手くいかず、軟式テニスサークルに入るものの場の空気に馴染めずすぐに幽霊部員となった。他には鉄道研究会に入っていた。この頃には信仰上の集まりにも半ば無理やり参加させられるようになっていて、嫌々活動することになってしまった。 大学での人間関係は順調に見えたが、サークルでの布教活動をすることになってしまう。組織に恵まれなかったため、どうしてもやらないと帰れない空気になり、断れば理詰めされるので仕方なくやっていた。しかし高3の入信当初に学校での人間関係が軟化する利益(りやく)を得ていたため、信仰自体が悪いのではないとどこかで気づいていたので信仰活動を断ることはできなかった。
経済的には常に困っていた。大学1年の最初の半年でバイトの面接に13連敗して貯金が尽き、携帯を強制解約されるほど困窮した。ようやく受かったバイトは営団地下鉄の通勤対策だった。月4万程度だったので他にもバイトをしようと面接を受けたがまったく受からなかった。緊張もしないし普通に応対して普通に落ちていた。いまだに理由はわからない。
サークル(鉄研)内では私を排斥する動きがメンバーの共謀で進められ、ついに退会処分となった。サークルメンバーのやり方は、携帯のメアドを2chのURLを模したものに変えて匿名の脅迫メールを送りつけたり、わざと私を避けるなど常軌を逸しており、そこには何の正当性もなかった。私は鉄研のやり方を強く詰り、退会処分の取り消しを強く要請したが聞き入れられなかった。
その後、信仰は嫌ではないが組織は嫌で仕方ないので我慢して信仰するしかない日々が続いた。先輩の理不尽な指導で趣味のポケカを辞めさせられ、その組織を信仰で脱出する方法を模索しながら活動するしかなかった。
就活はまったく上手くいかなかった。そもそも身だしなみという概念が理解できなかったこと、経済的に困窮していて身だしなみを整えることすらままならなかったのが一因にあるが、そもそも趣味よりも身だしなみを優先して金を使う人間は人生の楽しみがない馬鹿だと思っていた。私服は当時のオタクによくあるチェックのネルシャツのワンパターンだった。無論コーディネートという概念はなかった。
当時から風呂をキャンセルする傾向が顕著にあり、
内定がないまま大学4年の2月を迎え、ブラック企業の研修に半年間無給で奉仕させらせそうになり完全に逃げ場がなくなってしまった時に火事場の馬鹿力で信仰に取り組み、大学の就職課で見つけた求人の面接を通過して二次面接一発内定を手にしてブラック企業の研修を脱出した。大学の卒業式1週間前のことだった。この体験もあり、私は信仰上で幹部の役職に昇格した。
給料は手取りで約25万円、人間関係もオタク気質の人が多い恵まれた職場だった。また、大学時代にアニメを見始めたことでレンタルDVDのリッピングとエンコードをかじっていた経験が内定獲得の大きな要因になった。入社後はAV動画編集やサムネイル、キャプション制作を主な業務とすることになった。これが私の音MAD作者としての原点である。
サークル(鉄研)を追放されたことで居場所を失い、現実から逃げるように高校時代から立ち読みしていた「ラブひな」のアニメを見るようになる。この頃はちょうど「魔法先生ネギま!」の連載が始まった頃で、一気に赤松健作品に傾斜して二次創作SSやイラストサイトの巡回を始めたが、ラブひなファンサイトが次々に閉鎖していくことに焦燥感を感じていたところ、宮崎のどかのファンサイトを見つけたことからネットを通じて他人と交流することにハマり、またアニメや漫画を楽しむだけでは飽きたらなくなって自らもファンサイトを開設して二次小説を書き始めた。リアルの人間関係を見限り、ネットの交友関係が唯一の居場所になった。大学でも講義そっちのけで暇さえあれば小説を書き、オフ会にも参加してファンサイト管理人どうしの交流に明け暮れた大学生活を過ごした。
性的な逸脱行動はさらにエスカレートした。まず法律を調べ、どうすれば覗きを合法的に行えるかを最重要項目として情報収集していたところ、2ch(PINKちゃんねる)に辿り着いて入り浸っていた。そして都内某公園の花見会場や某花火大会が野外覗きのスポットになっていることを知り、それ以来30代前半までその覗きがライフワークになった。即ち年2回のアディクションへの耽溺が生きる気力になった。
しかしそのうちそれだけでは足りなくなりPINKちゃんねるを徘徊していると、聞いたことのある漫画やアニメのタイトルが目に入った。もしやと思い「ラブひな」や「魔法先生ネギま!」のタイトルを検索すると簡単に見つかり、そのスレッドを開くと馴染みのあるキャラクターが原作では絶対に見せない性行為をしている文章の描写が目に入り、気がついたらスレッドの住人になっていた。推しの書き手も見つけて続編を楽しみにしていた。例によってそれだけでは飽き足らなくなり、ネギま!アニメ1期で原作改変によりヒロイン(神楽坂明日菜)が死を遂げる到底納得しがたい急展開にブチ切れ、アニメの展開を再定義したハッピーエンド小説をスレッドに書き込んだ。スレッド内ではたいへん賞賛され、感動してくれる人まで現れた。それからエロ小説を書くようになったが、自身の女性不信の影響から描写できた性行為はペッティングが限度で、セックスシーンを書くことができなかった(成人したばかりの大学生なので当然といえば当然ではあるが)。
社会人になってからの環境は人間関係こそ良く周りの先輩や同僚もオタク気質で寛容であったものの、業務内容がアダルトコンテンツ制作である点が唯一の引っかかりだった。自分がそんな世界に片足突っ込むとは思ってもみなかったのもあるが、真面目さの名を借りた白黒思考から自分はここにいていいのか?との疑念が湧き始めた。信仰上の先輩がオタク嫌いだったため、信仰を第一との名の下に仕事を辞めるように促されたこともあり、私はそれを鵜呑みにしかけていたこともあった。オタクの自分には「オタクとしての自由」と「信仰の枠組み」の間でジレンマが起きていた。信仰は一番大事だ、しかしこの職場では毎日がオフ会のような感覚でいた。私のネット(個人サイト)での活動も社内で見られたりしていて、自分を生かせている気はしていた。居場所が信仰に潰されると思った。この頃から、自分の身の振り方について漠然とした不安を抱えていた。
自分の居場所を守るために信仰上は良い顔をし続けなければならなかった。職場からほぼ定期券区間を外れた会館に自発という名の同調圧力を受けて参詣を重ねるストレスに耐えるため、外食してから参詣して帰宅後にまた食事するといった生活を送っていた。この頃が最も摂食障害に耽溺していた。給料はそれなりに良かったがほぼ食費と交通費に消えた。この頃には信仰上の活動をすると称して覗きスポット探索行動を重ねていた。
会社はネットワークビジネスのようなことを始め、開発部に所属していた私(部署丸ごと)は運営としてそれに加担させられることになった。プロジェクト開始当初から社内の空気は不穏になり、退職者が続出していた。やっていたのはメタバース開発とそれに伴うスマホサイト運営、そしてMVNO事業までも目論んでいたが、当時はiPhone 3GSとCore 2 Duoが全盛期の時代で、開発中のメタバースが一般的なPCやスマホには到底耐えられないスペックを要求する代物であったことからビジネス自体が成立しないものとなり、不実告知の罪で社長をはじめ上層部が逮捕され、会社は事実上の倒産となった。まるで信仰上の環境が映し鏡のごとくそのまま社内の環境になっているようだった。
学生時代からのネットでの交友関係は社会人になっても続いていた。主に「魔法先生ネギま!」関連の繋がりで、オフ会にも参加していた。当時はmixiが全盛期で、個人サイト管理人以外のHNも聞いたことがなかった人との交流が増えてきた。その人には「成果物」がないので話のネタがなかったのでサイトを持っていない人とはあまり交流していなかったのもあり、ネット上のつながりも少しづつ疎遠になりつつあった。サイト内でのつまらない揉め事でニュースサイトの管理人とケンカしたこともある。その数年後には和解することができたが、ケンカしたこと自体が一因でSSの執筆もあまりできなくなっていった。
2008年8月にTwitterを始めた。当時は現在のような怒りの象徴のような場所ではなく、平和なコミュニティそのものだった。自分の変態ぶりを(ネタの範囲で)さらけ出せることも居場所の一つとなった理由だった。ネギま!関係の知り合いはほぼTwitterに移行していて個人サイトは役割を終えた。
しかし、広瀬香美と勝間和代がTwitterに入ってきたあたりから、ゆるやかに居場所が壊れていくのを感じていた。これは私だけの話ではなく、あくまで体感だが多くのユーザーが同じ事を漏らしていた。芸能人が続々とTwitterに流入してくることに一抹の不安を感じていた。
一般人の流入に伴って自分のネット上での優位性が失われていく恐ろしさから、ネット上の関係が疎遠になっていった。
新卒で入った会社の倒産後は、やはり就職が決まらなかった。バイトすらも決まらなかった。バイトに受かる人間の存在自体意味が分からなかった。これまで通り制作を仕事にすべく、Adobe目的のために興味もないWebの職業訓練校に通い、格安でAdobe CS5を手にすることはできたが、先行投資すれば就職できると思いPC(自作)もSandy Bridgeに新調したが就職はまったく決まらず、手持ちのクレカはすべて強制解約となり、返済目途がまったく立たなかったため某クレカのオペレーターのお姉さんにめちゃくちゃ怒られた。返済のため一眼レフなどを売却したが大した金にはならなかった。
やれる仕事は警備員しかなかった。当時所属していた支社の支社長は態度も素行も悪く、支社に所属する全警備員から嫌われていた。私はパワハラの標的になり理不尽に怒鳴られ、干されて仕事を与えられず、年収はたったの80万円だった。当然、年金や国保は支払えず滞納し、それを誰にも相談できずに父親の口座とクレカが凍結されるに至った。それを謝罪しなければならなかったのは人生最大の屈辱以外の何物でもなかった。父親は絶対に自分の非を認めない人間で私に謝罪したことはないので、私が父親に謝罪すること自体が屈辱だった。謝罪させられたことは今でも許していない。
支社長のパワハラがエスカレートし、私はついに支社長を殺してやろうとして現場から凶器になりそうなものをパクることを画策していた。しかしその段階で高熱で倒れ、実行することはできなかった。その後支社長は、素行の悪さで新宿支社から八王子支社に左遷された。
警備員を続けるのは経済的にも精神的にも無理だったので転職活動を続け、警備会社から飛んで制作会社に個人事業主として入った。しかしそこもAVのエンコードを主とするアダルトコンテンツ制作が業務だった。そこ以外は受からなかった。単価は安く、月収10万程度で終電まで残業する毎日だった。この現状に「雇用はクソだ。雇用は絶対に信用してはいけない。会社に入ればいつか必ず失業する。人の下につけば必ず搾取される」と悟っていた。社会の正規雇用への狂信に嫌気がさした私は雇用自体が失業のリスクだと思っていたので失業を逃れるためには雇用を完全に見限って起業するしかないと思い、ビジネススクールに通い始めた。またしても先行投資で始めた結果借金だけが残り、経験も交遊も得られなかった。もとより終電まで残業の日々でスクールを休みがちだったので金をドブに捨てていたようなものだった。
1年半後、私は制作会社を辞めて仕事を引き継ぎ、フリーランスの選択を余儀なくされた。担当者が何度か変わったが、2番目の担当者がクソみたいな奴で、何かにつけてメールで怒られたりペナルティで単価を下げられたりしていた。キツい仕事だった。その後担当者が変わって仕事は楽になったが単価は相変わらずだった。この頃にはSandy BridgeのPCではもう限界であり仕事が満足に受けられる状況でなかったことから案件を受けられなくなってしまった。
30歳ごろ、自転車旅ブログに影響されてクロスバイクを購入した。それまでは自分の自転車を買う余裕すらなかったので弟の自転車を借りて壊れるまで乗り潰していたので、弁償もせず自分の自転車だけ買うのかと弟に批判された。それに対して私はママチャリの不自由さを「走るゴミ」と揶揄して二度と乗らねえと言い放った。馬鹿みたいな話だがそれ以来現在までママチャリを所有していない。1年後にはロードバイクを購入した。資金源は確定申告の還付金である。
いよいよできる仕事がなくなってきた。支払い(主に税)で経済的に圧迫されていた頃、都内でUber Eatsが始まっていることを知り登録した。そして都内で稼働を続けていたがメンタル的に続けるのがつらくなった。しかし仕事を続けるための先行投資ができなくなっていたので自転車自体がつらくなり始めていた。
この頃、信仰上で組織の再編が行われたことから現在の組織の元ギャンブル依存症の先輩と知り合うこととなり、その組織で活動を始めた。趣味を通して友達をつくる活動にも勤しんだ。しかし友達はできなかった。元来友達がいなかったため、信頼関係とか自己開示とかそういうものを無意識に振りかざしていた。信仰上の組織にはできないのに無理に同調しようとして常に苦しんでいた。
その後、同じ組織にいた別の先輩が昇格して副長になり、組織上で元ギャンブル依存症の先輩と私の間に入ることとなった。しかし彼は鼻につく発言が多く、組織の中では不満が多かったようである。私もなぜか彼は気に入らなかった。上手いこと操作しようとしている感じがした。組織内の他の人はそれを口に出すことができたが私はできなかった。組織という枠に縛られたままでいることが身を守ることだった。しかしそれは破綻した。彼と一緒に信仰活動するのは無理になり、怒りをため込む一方だった。
この頃、都内某キャンプ場で放尿マニアが逮捕された事件が報道され、某有名おしっこ漫画家が「クズだな」と言っていたのがショックで覗き行為を引退した。裏切られたような気がして「お前が言うな」との憎しみに変わった。もともと婚活のために覗きをフェードアウトする予定だったが、この出来事が決定打で、婚活がうまくいかなかったこともあり風俗にシフトして33歳で童貞を捨てた。その後はハプバー、マチアプとステップアップしていくつもりだったが上手くいかなかった。ハプバーでは同意を取ったのに取らなかったことにさせられそうになり、事実上冤罪を着せられたためハプバー通いを辞めた。その頃、しみけん&おぱんぽん主催の性癖合コン*6に参加した。参加者の女性のひとりがTwitterで参加表明していたことから繋がり、その後合コンでなんやかんやしたが告白タイムにはほかの参加者に負けてしまった。しかしその後、1年ほどDMのやりとりだけは続けられた。その時に自分が誰にも言えなかった覗きの過去を初めて話した。彼女からの返答は「ウケる」だった。犯罪としての軽蔑ではなく、性癖としての受容を初めて経験したのである。その後も彼女とのメル友的なDMのやりとりは続くものの会う話にはならず、つかず離れずの依存的な関係が続いた。が、最終的に再会は叶わなかった。
並行して、女性慣れと称してソープ通いを続けていたところお気に入りの子を見つけた。名前を夏樹さん(仮名)としておく。
夏樹さんはなんだかんだで尽くしてくれるようなセックスだっとのですぐにその虜になり、本指名になってからは自己開示でいろいろなことを話し、後述のRin氏のことなどを話していて知らぬ間に相互ガチ恋状態になっていた。お互いを貪りあうセックスだったと言っていいだろう。私は風俗の常識に則ったやりとりをしているつもりだったが確実にのめり込んでいた。おそらく夏樹さんも同じだっただろう。風俗嬢と客らしからぬ関係がそこにはあった。
性癖合コンの子に会えるかもしれないチャンスがやってきた時に、私のほうからソープ卒業を切り出した…と言えば聞こえはいいが、結婚できる可能性のあるほうに行ったというべき判断で、言い方は悪いが夏樹さんを切った。しかし合コンの子には会えず、夏樹さんも連絡を取っても「幸せになってね」と返ってくるだけで会うこともできず彼女はお店を辞めた。その後はソープに行っても何か釈然としなくてソープ通いもマチアプも辞めた。
社会人期には、AV編集やカスタマーサポート、警備、編集など複数職を経験。面接(選考)では緊張はしないのに“通らない”ことが続いた一方、AV編集だけは合格することが多かった。本人の仮説では、
が噛み合い、選考側の期待とズレにくかったためと理解している。
幼少期からの「名指せなさ」は青年期でも継続。「友達」と口にすること自体が怖く、関係性を確定させる語を避ける傾向が持続した。のちに趣味の分野等で「友達を“作る”」発想に流れるが、これは他者を信頼できないため、関係を設計・管理して安全を担保したいという生存戦略でもあった。 この設計衝動は、後年Twitterで観測した“友達作りコンサル”的手法への強い嫌悪(「個室に誘い込むような気持ち悪さ」)として反発を生む。自分も同質な操作性を帯びうるとの自己警戒が、怒りと羞恥を複雑に増幅させた。
青年期末、覗きの反復と後悔の反復が重なり、“罪悪感がないように見える/実感しにくい自分”を殴って罰する行動(自己打擲)のエピソードが残る。ここで形成された三層構造――
は、その後の対人・SNS・創作・信仰上の諸領域で反復的に顔を出すことになる。
それから2年ほどが経ち、自分はもしかしたら発達障害じゃないか?との疑念が沸き始める。メンクリに行くかどうかを母親に相談したが最初は否定された。聞き入れられないので後日自分でクリニックを予約して診断を入れたのだった。
そして35歳にしてようやく発達障害を診断された。WAIS-Ⅲで言語理解101、知覚統合100、ワーキングメモリ128、処理速度72、凹凸差56のASDである(後に依存症のメンクリに転院しADHD・LDの診断もおりる)。この凹凸差は通常15以内、20 - 30で発達障害の可能性大と診断されるところだが、50超えはほとんど遭遇しないほどの極めてレアケースであるという。
そんな時、同じ自転車ブランドに乗っている人をTwitterで探していてたまたま見つけたのがモデルのRin氏(仮名)である。クロスバイクを始めたばかりで、体力回復に自転車を活用していたという。
Rin氏とはただのフォロワーの関係でしかなかった。しばらくのち彼女はそのメーカーのイメージモデルとなり活動を始め、SHOWROOMで配信を始めた。私はこのときはまだ普通に「メーカーのファン繋がり」として活動していたが、とある試乗会で彼女が初対面で手を握ってきたなど距離感がおかしいところがあり、それが一因で彼女にガチ恋した。その後、配信に参加するうちに自己開示を小出しにしたりコメントを重ねたりしていた。配信にはメーカーのファンではなく本人のファンが大挙していて、元々メーカーのファンである私は肩身が狭くなり本人のファン勢から疎んじられていた。しばらくのち、Rin氏からのDMで配信参加の自粛を要請されたときはすべて終わったと思い込み、Twitterアカウントを削除しようとするに至った。約1700人いたフォロワーを70人まで減らしてフェードアウトするつもりだったが、それをRin氏に引き止められた。
そこからは数か月の自粛ののち、再び配信に参加を始めるとRin氏への違和感がいくつか出てきた。彼女の話には他人が出てこなかった。ずっと一人でやっていたような話しぶりをしていた。また、半年に一度ほどの頻度で長い休みがあった。あるいは、新しいロードバイクを買ったその足でインプレッションもせずに山にライドに行くこともあった。しかし私はそれらの違和感を正しく処理することができなかった。時間が経つにつれて違和感は増えていった。
ある時、某レースにRin氏が初心者チームを組んでエントリーすると配信で話していて、人員が足りないとのことで当時ギリ初心者だった私が名乗り出た。検討しておくとのことだったが彼女はゴリゴリの経験者をチームに入れてエントリーしたと配信で報告した。意味が分からなかった。私のエントリー見送り自体は普通に受け入れたが騙し討ちに遭ったようだった。その後も彼女の言動には齟齬が見え始めた。私はそれに不満を感じ、名前を隠して彼女とのDMを晒してしまったことがある。それがのちの事件の引き金となってしまった。
ある日、Rin氏から一部のリスナーに大切なお知らせと称してDMが来ていた(その"一部"に私も入っていた)。内容は、メーカー側からモデル契約が更新されなかったことと、その逆恨みで(要約)メーカーのロードバイクを降りることにしたとのことだった。私は混乱していた。彼女の意を汲みつつもしかし今がチャンスだと思い、以前にDM晒しをしてしまった件を自分から謝罪したうえで告白した。玉砕覚悟だった。
Rin氏からの返答は想像の斜め下の常軌を逸したものだった。当時、発達障害を診断されたばかりの私にとって「それともこの件も障害のせいにしますか?毒親のせいにしますか?」「同じ障害者なのに他人の気持ちがわからないのは致命的に最低」との障害者をどこまでも舐め腐った発言は到底許し難いものであった。私は信仰上で副長に相談し、「幸せになることが相手への復讐だよ」とアドバイスをもらい、それをそのままnoteの記事に書いた。記事の主な内容はRin氏の嘘や違和感を暴いて彼女を強くなじるものであった。また、他のリスナーが私を監視して私の別垢を特定し愚痴をRin氏に密告していた。そしてRin氏は「私の悪口を全削除しろ」と言った覚えのないものを消せと脅迫してきて「殺害予告された」と警察に虚偽告訴した。
私は「幸せになる=復讐」を有言実行すべく、自転車メーカーの元スタッフの方が個人的にやる挑戦の壮行会でRin氏を引き合いに出して決意表明したがそれで彼に迷惑をかけてしまった。また、以前から気になっていた同じメーカーに乗っている自転車女子にアプローチをかけたが当然玉砕した。のちに両者には謝罪済みである。
警察の呼び出しに私はスーツで出頭した。そして発言の一々について確認が行われたが、Rin氏の言う殺害予告にあたるとされた発言は問題なしとされた。しかし、相談でもらったアドバイスの「幸せになることが"復讐"」の文言がストーカー規制法に抵触するとのふざけた回答が返ってきた。本件を弁護士に相談することとなり、証拠を集めて弁護士事務所に赴いたところ、弁護士は「警察はRin氏を問題のある女性と見ている可能性が高い」「この件は彼女の被害妄想である」と回答し、今後Rin氏から動きがあった場合の対応を打ち合わせた。ここに本件は私が冤罪被害を受けた事件であることが確定した。
自転車メーカーにイメージモデルとして関わったRin氏を巡り、本人の主観では「彼女のメーカーに対する"売名"(メーカー談)と受け取られる行為→契約打ち切り→自分に対する虚偽の告発」という連続を経験した。さらにその後の事故まで重なり、「無名に留まる」生き方原理から逸脱した因果応報が現れたという霊的な解釈をしている。
2019年7月、私はTwitterのアライさん界隈で「ストーカー冤罪と戦うアライさん」通称「エタイさん」として活動を始めた。界隈では多くの人と話すことができた。そこに私と似たようなコンプレックスを持つアライさんがいた。「元中年彼女いない歴=年齢のアライさん」通称「元イさん」、後の元井氏である。
元井氏主催の非モテオフ会に参加し、オフ会そのものは何の問題もなく終わった。当然、他の参加者とトラブルも起きなかった。しかし、私がオフ会や元井氏ならびに他の参加者とまったく関係なく、過去の覗きの話をカミングアウトしたところ元井氏が拒絶反応を起こし、私にエアリプで暴言を吐いて一方的に非モテオフを出禁にされた。アライさん界隈での繋がりを失うことが私の「底つき」であった。津島隆太「セックス依存症になりました。」を以前から読んでいたことから、私は転院して都内のメンクリに通い、そこからSCAに繋がった。