スピリチュアルバイパスとは1984年にカナダの心理療法家ジョン・ウェルウッドによって提唱された造語であり、本来は自分を救済してくれるはずの信仰や、12ステップで言う「霊的な道具」を使って自分の人生の問題から目を逸らすことである。10個のタイプがあるらしいがそれはともかく、私にはこのスピリチュアルバイパスが自動思考レベルで常に起きている。
感情を感じることは私にとって危険だった。感じたら反応を面白がられて存在を否定され「汚物」に戻る、だから汚物化を阻止するために感じないようにする必要があった。それが「黙る」生存戦略だった。
しかし感情はなくなるわけではないので、感じる前に意味づけして処理する必要があった。
私のバイパスは恥を覆い隠し、無力感から逃れ、最終的に存在否定の反転から破壊的信仰に至る三段構えになっている。これはアディクションサイクルのそれぞれのフェーズに対応している。
| アディクションフェーズ | バイパスの階層 | 内部の構造 | 典型的な行動・心理反応 | バイパスの使われ方 |
| 覗きフェーズ | 表層:恥の防衛層 | 「見られたくない」 「自分は汚物じゃない」 | 現実の否認 罪悪感の知的処理 自己正当化 | 教義やプログラムの言葉を "免罪符" にする 「スリップをノーカンにしてください」 |
| 恋愛依存フェーズ | 中層:無力感の防衛層 | 「見放される」 「捨てられる」 | 承認を得るために他者に依存 | 教義やプログラムを曲解して "愛される自分" を保とうとする 神仏を恋い慕うような信仰→「神様、僕と一緒にホテルに行ってください」 |
| 感情暴走フェーズ | 深層:存在否定の防衛層 | 「どうせ汚物」 「壊すことでしか存在できない」 | 破壊的な信仰 恨みの強化 呪詛的な正義感 | 祈りの逆転(他者の不幸を祈る、他者を害することを望む) 「死神をハイヤーパワーにしたい」 |
各アディクションフェーズでのバイパスの目的は次のようになる。
それぞれのフェーズには決まった思考パターンがあり、それに応じたバイパスがある。覗きフェーズでは根底にある「恥(=自分が汚物である前提)」を直視できない。「自分が汚物である」ことは存在自体に関わる前提のためこれが変わると自分が消えてしまう恐怖があり、変わらないために感情をバイパスする必要性がある。
しかし、「汚物」のままではいたくないが「人間」に戻れば傷つけられて汚物に叩き落とされるため、両者の中間の「モノ」になる戦略的妥協をするしかなかった。人間に戻らないことで恥を防衛し、自分が傷つく原因を他者に丸投げする生き方を確立したのである。
恋愛依存フェーズでは、覗きロジックが瓦解しているため無力を認めなければならないはずだが、それを認められないため承認欲求が過剰に働く。
この時、自己証明が他者に通用せずに消える恐怖が根底に鎮座しているため、無力感を感じないために他者から関係を拒絶された時を想定して先回りでバイパスが行われる。例えば、Rin氏にガチ恋していた頃は彼女に最終的に告白を断られることが最初から想定されていたので、その痛みを感じないようにするために予め失恋を信仰上の教義などで意味づけしていた。
また、SCAに繋がる前は「ソープはカウンセリング、ハプバーは自助グループ」だと思っていた。これは恋愛依存フェーズでのバイパスの核心であり、性的な場を回復の場に置き換えて痛みを麻痺させることで愛を得ようとしていた。SCAに繋がってからも仲間からの愛を得ることを目的として霊的な道具を逸脱して使う傾向が強く出ている。
感情暴走フェーズでようやく他者をどうやっても変えられないことを認める。一見認めるようであるが許容はできない。つまり、平安の祈りの入口である「変えられないもの」の存在は認めるけどそこ止まりで、それを「受け入れる」ことはできないから「落ち着く」どころか逆に破壊する方向に愛情欲求が反転する。このフェーズのバイパスはこれに尽きる。
相手を理想化したり、断たれた関係に執着したりして無力感を感じることを回避するため、プログラムの言葉を使った。元井とレスバを続けていた3年間は、ビッグブックの「自分に理不尽なことをした人たちは病んでいるのだと考えた」「病気の友に喜んで示すような包容力」等を都合良く意味づけして彼との関係を元通りにしようとしていた。
元井に限らないが、相手との関係を拒絶されれば、霊的な道具を使ってその意味づけを通して無力感の否認を続けていた。この時「平安を祈る」をバイパスに使うことがある。「平安を祈る」必要性があると相手を位置づけることで相手の破滅を願う呪詛的なバイパスを使うことで、心の安寧を維持しようとした。
それぞれのフェーズのバイパスの共通点は、根底に「存在自体を認めてほしい」愛情欲求があるため、他人を変えられない(無敵ではなく無力である)自分に対して恥を感じていることからそれを正当化して他者に原因を転嫁するところにある。しかしこうした無敵でありたい執着は、逆説的に無力である自分を否定することになりバイパスが強化されてしまう。こうして人生がどうにもならなくなってしまった。
私にとって世界そのものが自分を汚物扱いしてくる現実はあまりにも辛すぎた。しかし現実とは関わりたかった。そこで出口戦略になったのがネットを使った現実の拡張である。すなわち、ネットの文脈を現実に持ち込んで現実を生き、現実の出来事をネットで共有することによる意味づけが生存戦略をとったのである。これはいわゆるネット依存(現実逃避でネットの世界に閉じこもる)とは似て非なるものである。
この起点は大学時代に鉄道サークルに入ったことにある。そこでは先輩が2ch用語(ネットスラング)をサークル内発刊物等で使う文化が存在していて、リアルで使うことも多少あった。この文化が私の中でネットと現実の境界線を弱める入口となり、私はその文化に順応してサークルのWEBマスター(HP管理者)となった。これが後に個人サイトを中心としたネットの人間関係や動画エンコードスキルを仕事にする礎となり、クリエイターとして生きていく原体験となった。
しかしそれは同時に様々な問題を引き起こした。それは単なるネット依存とは違い、現実とネットが融合してしまい切り離せなくなった(ネットが現実を侵食した)ために現実がネットの下位互換になってしまった。それはいわゆる「ネットが真実」と信じ込んでいる陰謀論者と表面上では似ているが、陰謀論者がネットの知見で世界を否定して優越思想で君臨し安心感を得たいのとは逆に、私は「自分は汚物」との劣等思想をネットで浄化しようとして現実に赦され受け入れられたい欲求が根底にある。しかし結果的に汚物前提を強化する自己矛盾を抱えているため、それが様々な問題を助長する一因になっている。
現実の痛みや悲しみ、不安を感じることは、他人にそれ自体が面白がられていじめられる原体験から自分が汚物であることを再確認することになると誤って学習したため、感情をそもそも処理しない戦略が必要だった。そこでネットでの発言と活動を通し、自らの痛みを感情ではなく概念として処理して納得させる手法が定着した。その変遷は以下の三段構えである。
この流れで自分の感情からの逃避を繰り返した結果、感情がわからなくなり理論と概念でスピリチュアルバイパスの土台が形成された。
ネットを使い始めた初期(個人サイト時代)は二次創作小説を書いて現実の痛みを文章として自己の外に放り投げた。つまり、女性から汚物扱いされた体験を上書きするためにラブコメを中心とした「お姉さん×弟分」*1で感情の穴埋めをした。もちろん私自身を投影する対象は弟分(ショタ側)である。
個人サイトやニコニコ動画では特定の分野で知られた人に「○○の人」と通称が付与される文化があったが、キャラを扱うことで他者から通称を貰う形で愛されたかったのである。
中期(ブログ時代)は、個人サイトの付設コンテンツとしてブログをやっていたため、話題の中心は漫画・アニメ・鉄道が中心にあった。そこで作品のレビューを通し、キャラの痛みを自分の痛みと重ね合わせて「考察」の名の下に痛みが思想化された。「魔法先生ネギま!」においていまだ幼少期の年齢の主人公である女子中教師ネギが子供ゆえに到底抱えきれない問題を生徒たち(年上の女性)に支えられて乗り越えるも結局闇堕ちして次作「UQ HOLDER!」でラスボスとなる展開は、私が幼少期に抱えた問題と現在に至る愛情飢餓の観点から悪い意味で相性が抜群に良かったため、自分の人生をネギま!でなぞる思想が構築された。そしてネットの人間関係は個人サイト時代の管理人同士が中心にあり、その繋がりのオフ会にも年に数回は参加していたが、リアルで会った人たちとの話題の中で自分の思想化された痛みの正しさの確認が行われ、感情の痛みは自己正当化された。
後期(SNS時代)に入ると、Twitterで交流がリアルタイム化して現実の話題が増え、それまでの仲間たちは赤松健作品から他ジャンルへ行ったりライフステージの変化でネギま!の世界から離れていくと、自分だけが取り残されてしまいネギま!を中心に構築していた現実が瓦解していった。ネギま!を中心とした現実がなくなれば自分は再び「汚物」に戻ってしまう。それを防ぐため、ネットで築き上げた仮想現実に実際の現実を統合しようとしてコミケで婚活記の本を出し、ライフステージの変化した仲間たちへと追いつこうとした。婚活の目的のひとつはそこにあった。
自転車界隈でRin氏にガチ恋したのはこの頃である。当時、信仰上で私と同年代の先輩が上の役職に上がったためRin氏のことを相談するようになってから、最後まで線引きをしていたネットと現実の境界線が崩れて現実をネットに取り込もうとした。しかしそれもストーカー冤罪事件によって崩壊しそうになった。この最後の砦を死守するには、ネットで起きた感情の痛みを処理できるように現実の信仰の意味を改変するしかなかった。これがスピリチュアルバイパスの表面化であり、これがのちに常態化して現在に至っている。
つまり、感情の痛みをネットで再定義しないと現実を生きることができなかったのである。そして現実で感じるべき痛みは信仰上の人間関係でも解放できず抑圧するレベルまで及んでしまったため、感情の痛みをファンタジーとしてネットでいったん(レスバや論争で)処理して本来の意味を消し去り、それを信仰上の意味に当てはめる形で現実に戻して新しい意味づけをする、こうしてネットの文脈で現実を上書きする手法が確立した。そして信仰の有難さを宗教組織の中で語っていく必要があるため、ネットの出来事で信仰をどんどん上書きしていった。信仰を続けるためにネットで意味を歪めていくしかなくなってしまったのである。