親記事
◆幼少期(~小6:女性不信と覗きに耽溺した時期)
◆重度の女性不信
女性への不信感がオタク化の決定的な要素であると同時に、オタクとしての生存戦略は大いに私の女性不信を拗らせることとなった。私は普通のオタクと違い特定の作品に長く関わる傾向が強く、よってそれぞれの作品が女性不信に深く影響を与えている。
それぞれの作品とオタク界隈を取り巻く情勢が変化する中、私がいくつかの作品によって女性不信をどう拗らせ、またどう回復につなげていくかをここに列挙する。
また、アライさん界隈に属してはいるが、元ネタの「けものフレンズ」は元々それほど傾斜していないため女性不信への影響がほぼ見られない。
なお、この記事は私の生存戦略(内なる原因)がどう働いたかの話であり、外の刺激が問題行動の原因ではないことに留意すべきである。
聖剣伝説シリーズは旧スクウェア作品の中でも切ない背景やバッドエンドに終わる傾向が強い。それは多くのファンを獲得したわけだが、私の生い立ちからもそれは引きつける魅力があった。
赤松健先生は言わずと知れた表現の自由戦士(参議院議員)であり、私をオタク沼に落としたのみならず女性不信を徹底的に拗れさせたS級戦犯である(褒め言葉)。私が16 - 35歳頃まで拠り所にしてきた作品群で、オタク活動の基礎を固めた一方で女性不信に振り回されたファン活動が最も長かった。ネットの人間関係のベースを作ってきたものであり、今も細々と交流を続けている。
先生は元々漫画家であると同時に実業家でもあり、著作権関連の活動をしていたことも私の生存戦略に大きく影響した。個人サイト全盛期だったことが要因として多く、私がクリエイターとしての人生を歩み始めたのもこの影響に寄るが、それが女性不信の感情バイパスに拍車をかけたことが特徴的である。
本作にハマったのは高1の頃で、これが私のオタクとしての原点である。所謂ラッキースケベが売りの漫画ではあったが、私にとってそれは入口でしかなかった。弟から見せられた単行本を読み、週マガを毎週立ち読みしていた。
この作品には主に3タイプの女の子が登場し、ダメ男の象徴のような主人公・浦島景太郎にほだされていく。私の女性不信の感情をバイパスする麻薬としては十分すぎる構成だった。
最初にゾッコンになった対象は前原しのぶである。彼女は唯一、終始一貫して景太郎に恋愛感情を持っていた。所謂妹キャラであり、お兄ちゃんとして好意を持ってくれているのはオタク的にはたまらないと思われがちだが、私が彼女に没入した期間はそれほど長くない。これは景太郎がなる一筋だったことに要因がある。
次に惚れ込んだのが途中参加の乙姫むつみである。おっとり系お姉さん。母性の象徴のようなキャラで当然のように私はコロッと逝ったが、これも傾斜期間は長くなかった。景太郎がその女神的な魅力をも振り切ってしまったからだ。
私が初期にどうしても好きになれなかったのが成瀬川なると青山素子である。典型的ツンデレキャラ。ラッキースケベからの制裁は赤松健作品の「お約束」であるが、とはいえこの2人は景太郎をいつも冤罪に陥れる主犯格であった。しかしそこで私が感じるのが自然であろう嫌悪感は従属キャラ勢の景太郎へのフォローを超えた恋愛感情によって帳消しにされてしまった。
にもかかわらず、最終的に私は成瀬川なる推しに転んだ。正確には「景太郎×なる」CPにドツボにハマった。成瀬川なるは私にとって罰と赦しの象徴であったのみならず、赦しの補完をそれまで他のキャラ(特にしのぶとむつみ)がやっていたのがなるに統合されたことが、私のいびつな母性像を美化してしまった。
結局のところ、私の女性不信のバイパスは一度自分を裏切った相手と再び関係を修復して元通りになる方向に働いた。そこには「理解されたい=汚物から人間に戻りたい」欲求があり、最終的にこの2人が結婚する結末は女性不信からの脱出を夢見る私の幻想であった。特に終盤、なるも素子も景太郎への恋愛感情を否認できなくなって半ばヤケクソの告白によって好意を伝える様は、女子が汚物扱いに「底つき」して敗北する形で私が汚物から人間への昇格を達成する夢を象徴する点で非常に印象深く、罰が愛の条件として据えられ恋愛を救済として位置づける大きな要因となった。
つまり、景太郎は弱者男性としての私を生き移しにしたものと言って差し支えない。景太郎のように恋愛成就で汚物から人間に戻るサクセスストーリーは私にはあまりにも刺激が強すぎて、連載終了後は本編だけでは満足できなくなりファンサイトを巡回してSS(二次小説)を読むようになった。当初は前年齢系が主だったが、のち(ネギま!中期)にDingDongDong(※リンクはアットウィキの解説)などの小説投稿サイトでR18作品を読むようになる。
実は本作はヒロインたちが中学生という設定に抵抗があった。中学生は子供であり従属の対象ではないからである。しかし主人公ネギが10歳のショタだったため生徒たちが中学生という設定に母性救済ファンタジーが生まれてしまった。10歳からすれば中3女子は十分すぎるほどお姉さんである。
ネギほどうらやましい立場は他にないであろう。景太郎がラッキースケベで何度も冤罪に遭った反面、ネギは女の子の服を(不可抗力で)脱がしても子供であることが理由ですべて赦されるのである。女性不信の感情麻痺ファンタジーとしてはあまりにも魅力的すぎた。そして最終的にネギは壊れても女性達から見捨てられることなく救われる、このバイパスが強力すぎて本作群に没頭して女性不信を拗らせ、約20年もの時間を溶かしたのである。
そういう意味では、「ネギま!」「UQ」は私を最も蝕んだ超強力な毒性の作品だったと言える。
ネギま!は31人のヒロインを用意することで女性性のカタログを提示し多様な嗜好を取り込もうとするものだったが、それは私にブレまくって定着した「不安定な母性」を受け入れる入り口として機能した。そしてその中から4人の女子生徒が選ばれて傾斜することになる。
傾斜の順番は、
である。「ラブひな」の時と同じパターンで、どうあっても自分を存在否定した相手に赦されたいのである。
私に定義された母性は懲罰(存在否定)の現実と癒しへの憧憬という相反する要素で形成されているため、「赦されなければ存在できない」という存在否定の強化を以て女性に人生を明け渡すことになる。これをネギま!ファンサイト運営によって小説を書き仲間と交流する方法で女性不信を確固たるものへと変えていった。
このバイパスは、ネギま!ファンサイト界隈の人間関係にも影響してきた。象徴的な事件が2つある。
一つは、私がブログに感想を上げたSSの捕捉を巡ってとあるニュースサイト管理人とケンカしたことである。非常にくだらない理由であるが、当時の私にとって(他サイトのコンテンツではあるが)キャラを間違えられることは自分を否定されるようだった。その後、その管理人とは数ヶ月絶縁の後にmixiで愚痴大会などが行われたりしたが、最終的にとあるオフ会で和解に至っている。
もう一つは、ファン同士の恋愛沙汰で男性側が冤罪に遭ったことである。女性側の相談によって男性側のアプローチが明らかになったのだが、それに対して話し合いが行われ、男性側に複数人での監視と制約が課せられた。
私は事件の当事者ではない。しかし、この事件を見て「明日は我が身」と思った。自分が支配されることによって存在を否定される恐れが湧き、これを境にネギま!ファンサイト界隈が独裁に向かっているかのような錯覚に見舞われ、界隈からフェードアウトするように逃げ出した。
ネギま!のとあるオフ会で身体反応が出たことがある。2005年に行われた大麻帆良祭*1の上映会が2017年に新宿バルト9にて行われた。元々私は女性不信であることから声優は超苦手分野で、以前にもネギま!界隈のチャットでまったく話についていけなかったことがある。そういった状況の克服もかねて上映会に伴うオフ会に参加したが、スクリーンにかわるがわる映し出される女性声優の顔のアップに堪えることができなかった。ホールから出て休憩を取るほどの拷問と言える状況だった。
やはり声優というカテゴリの履修はできないと悟った。
ネギま!が連載終了してUQ HOLDER!が連載されると一気に状況が変わった。界隈の人たちのライフステージの変化もそうだが、それ以上にネギが完全に闇堕ちした側面が大きい。ネギま!後期ではメンタルを踏みとどまっていた彼がUQではラスボスになり、未来かつ不老不死者の物語として展開されたためクラスメイトのほとんどが死去で退場させられ、綾瀬夕映や宮崎のどか等の残ったメンバーもダークサイドに転落していた。これは私にとって理想の母性像ファンタジーの瓦解を意味していた。
「UQ」で提示されたのは成熟した母性である。エヴァ(雪姫)は完全に闇落ちしたネギを殺すことで救う、つまり彼を赦すのではなく彼の真実を受け入れる形の愛を貫き、彼を殺して自らがラスボス第二形態になる選択をした。幼児的母性(最終的に赦されてすべて愛で上書きする)を求める私はそれを受け入れることができなかった。赤松先生が不死者をテーマに据えた時点で「赦す愛」が壊れる既定事項には抗えなかったのである。
Rin氏からストーカー虚偽告訴されていた頃に私にとって救いとなったのがこのエヴァのセリフである。綺麗事を並べるポリコレの塊のようなRin氏の態度は私が自分自身と向き合う姿勢とは真逆だったため、汚物扱いの原体験を持つ私には「赦しのない世界の慈悲」としての心の支えであった。これはある意味、初めて私が「女性=審判者」の歪んだ女性像から抜け出す成熟した女性の姿だった。
ただし、「UQ」は「ネギま!」の時間軸から見て相当な未来の話でありエヴァの愛の概念が成長したため、私がエヴァに置いていかれた形となったことが「UQ」に没入できなかった一因となった。これはネギま!における母親像ファンタジーを手放すためのひとつの転換点だったのだろう。現段階でUQを読めばまた違うのかもしれないが、赤松先生が今後表現の自由の泥沼に巻き込まれていくであろうことを考えれば、没入は厳しいかもしれない。表現の自由は私の女性不信の解決の鍵のひとつであるため、「参議院議員・赤松健」を回復の観点から見守っていくのが最適解かもしれない。
本作は名前だけは知っていた。
2025年6月、映画「小林さんちのメイドラゴン さみしがりやの竜」(原作8巻)公開に伴い、本作アニメの舞台である埼玉県越谷市とのコラボで定刻17:30の防災無線が主要キャラのトールの声で流れた。私の生活圏はその周辺に位置していることから防災無線がきっかけで公開初日に映画を見に行き、約30年ぶりに涙を流した。そして単行本を揃え、映画を2ヶ月で9回、追加公演1回の計10回観ている。
本作は埼玉県越谷市を舞台とした朧塚という街に住まうSEの小林さんが、山奥で傷ついたドラゴンのトールを助けて彼女が恩返しに小林さんのメイドとして居候を始めたことから展開する日常系のアニメ作品だが、時折ドラゴンの世界のいざこざに巻き込まれることになる。ドラゴンの勢力は破壊により秩序をもたらそうとする混沌勢、人間との共存を図ろうとする調和勢、そして両方の暴走で対立することに嫌気がさして見て見ぬふりをする傍観勢がいるが、この三大勢力はトラウマ傾向の支配・従属・回避に対応しており、小林さんを中心として朧塚にドラゴンが集まってくるコミュニティ(トールいわく「小林さん勢」)はトラウマの生存戦略を手放す「新しい生き方」として作品が確立しているところが象徴的である。CBTを終えてスキーマ療法に移行したばかりの私にはこのトラウマ回復的な物語は新しい生き方に追従する上で重要な役割を担いつつある存在になった。
本作で私が没入する対象はトールである。彼女は混沌勢でありながら従属型の生存戦略を持ち、破壊に与する者でありながら破壊に踏み切れないところや小林さんに見放されることを極度に恐れて行動を起こすところ、さらにはエルマとの不仲についても決裂に踏み切れずに小林さんに諭されるまま葛藤して前に進もうとする姿勢、そういったところが私の生存戦略と似通っている。
トールの人間関係は私の女性不信の人間関係モデルと似た傾向がある。以下の表にそれを示す。
| 心理 | 根底の感情 | トール | エタイさん |
| 愛着・依存 | 「見捨てられたくない」 「自分が必要であってほしい」 | 小林さん、カンナ | 恋愛対象の女性 |
| 断罪・制裁 | 「裏切られる」 「取り返される」 | 滝谷君、エルマ、テルネ など | Rin氏 支配型の仲間 |
| 敬意・共感 | 「自分を理解してくれる」 | ファフニール、翔太君 など | 従属型の仲間など |
トールの人間関係は小林さんとの出会いをきっかけに変質していく。彼女にとっての小林さんは「私の考えを変えたきっかけの人」であるが、私にとってのそれがSCAやSAの仲間である。小林さんコミュニティと同様にSCAやSAにもそりの合わない仲間はいるが、私が彼らとの共存を図るにあたってもトールと同様のパターンを踏んでいる節がある。
トールにとっての「人間」は私にとっての「女性全般」である。人間の例外としてトールの前に小林さんが(友として)現れたのと同様、私にも女性全般の例外として「女性全般に対する考えを変えるきっかけの仲間」がいる。そして、人間の世界(「小林さん勢」という新しい霊的な生き方)で生涯生きていくことで自由を求めることが共通し、そこから人間関係を新しく作り直している。
私とトールの心の奥底の願いは「自由になる」であることが共通している。トールは元の世界で出会った少女が「メイドになる(仕えることを自分で自由に選択する)」ことを聞いて以来みずからが不自由であると考えるようになり、小林さんに出会ってメイドになる選択をするが、この「自由」への渇仰(渇望ではない)は私にとっての12ステップと信仰の原動力となっている。だから人間関係を自由に選ぶことができるようになることを願うが、私は従属する生き方を(古い生き方で選ばされるのではなく)自分で選ぶ自由を欲しているのであり、人間以外(法則や原理など)に従属する選択もまた自由であることを知るに至った。「生き方の原理」に従属することを自分で選択すれば自由になれるのである。