エタイさんは、幼少期の象徴的暴力体験を基盤とする女性不信と覗き行為への耽溺を経て、社会人期の挫折と対人衝突、SNS上の騒動をくぐり抜け、自助グループ(SCA/SA/EA/OA 等)と信仰の実践によって回復の道を歩む男性である。語りは一貫して「自分には取り戻すべき自我が最初から育っていない」という感覚を軸に展開し、自己の存在を「モノ以下」と感じる自己像の再編に挑む内的プロセスが中心テーマとなる。
1983年、東京都足立区で生を受け幼稚園に入る前に埼玉県に移り住む。3人兄弟の長男。幼稚園の頃には何か一つのことにこだわる傾向があったという。様子がおかしいと感じた母親が保健所を何軒もハシゴしたらしいがどこへ行っても大丈夫だ心配ないと言われ、(2025年現在からみれば)発達障害を見過ごされてしまった。このことが小学校で取り返しのつかない禍根を残すことになった。
アレルギー性鼻炎とASDの特性の悪魔合体により鼻をほじるチックがあったことから、小1の頃から学年の女子ほぼ全員から露骨に避けられて汚物扱いされる。席替えで隣の席になった女子に泣かれ、他の女子が慰めに来ることもあった。また、行動が目についたのか当時50代の担任のババアに目をつけられて教室の後ろや前に立たされる体罰を受け、大声で泣くことも珍しくなかった。しかし、怒りや悲しみの感情を露にするとその反応を面白がられていじめられることが多く、いつしか感情を出さないようになっていた。自分を出すことが許されなかったので人の名前を呼べなくなり一人称までも失ってしまった。小2の頃にはすでに「女は信用できない、女は敵だ」との女性(女子)全般への憎悪を明確に持っていた。
学校では極度の緊張状態がデフォルトだったためか、粗相をすることもあった。そういう時期にクラスの女子が授業中に粗相をしてしまったのをたまたま目撃したことで性癖が決定した。
小2の頃、母親に仕事で連れられた大型百貨店で仕事が終わるまで待っているように言われたが、待てずに泣き出して迷子扱いとなった。弟2人は泣かず自分だけが泣いていた。親に捨てられた感覚だった。
小中9年間、唯一ひとりだけ私を一貫して人間扱いしてくれた女子がいて、彼女を中心とした女子グループと小3の頃に大縄飛びで遊んだことがあった。そこで私が失敗したのだがそれを周りから責められ(ているように感じ)、その場で泣きながらゲロを吐いた。
その出来事との前後関係が定かではないが、気がついたら女子トイレを覗くようになっていた。なぜそうしたかは憶えていない。ただ、それが自分の生存戦略だったことは間違いなかった。友達はおらず、覗きへの耽溺が始まった以後は一人で花壇の土をいじって遊び、覗きだけが唯一の心の癒しだった。
小5の頃に一度だけ、私を人間扱いしてくれたその女子にアディクションがバレたことがある。しかし彼女はそれを恐らく誰にも言うことなく黙っていてくれ、また中学卒業まで彼女の私に対する接し方が変わることはなかった。しかし、大縄飛びで遊んだ当時の出来事で「女性全般を信頼する最後の砦」としての彼女を失うことになってしまった故に、私が彼女を信頼することはなかった。
学年が上がると担任は替わったが、小3の頃の担任からも体罰を受けた。当時、体育館で実施された全校集会はビデオに撮られて給食の時間に教室備え付けのTVで放映されていたが、ある集会の放映に私のくしゃみが収録されてしまっていたことからクラスで笑いものになり、くしゃみしたことを担任に責められて往復ビンタされた。また、音楽の授業で何人かが悪ふざけしたことを連帯責任で反省させられた際、ある女子から私に責任をなすりつけられたこともある。
女子からのいじめは、この頃にはモーゼが海を割るように露骨なまでのヘイトを受けていた。床に落とした私物を汚物扱いで拾われたりすることもあった。自分だけが机を隣の女子から離され、給食など4人で班になる時すら自分だけが机を離され、同学年の間では「エタイは汚い、だから机を離す自衛が必要」との暗黙の了解が罷り通っていて、それは男子も(そこまで露骨に机を離されることはされなかったが)例外ではなかったのでそれを注意する者は誰もいなかった。この露骨な差別に気づく教師は一人としていなかった。
緊張状態があまりにも強すぎたため、アディクションが覗きにとどまらなかった。一人で不快な感情から逃れる方法は、給食を何度もおかわりして給食大王ポジションを手に入れること、その延長線上でスーパーの試食を食べ尽くすことが日常になっていた。また休日にはエロ本を立ち読みすることがライフワークとなり、近所のコンビニの店員のおばさんに目をつけられてそのおばさんと私の母親が顔見知りになってしまった。学校では試食とエロ本立ち読みの所行が学年中で有名になっていたことから更に居場所を失った。
以後、休日に自転車で遠方へ出かけてエロ本が立ち読み可能な書店巡りをライフワークとするようになった。立ち読みするエロ本の種類も当時コンビニでよく売られていたスコラ*1やアクションカメラ*2などから月刊ドント*3、さらにマニアックなエロ雑誌にシフトして遠出することが多くなった。これが私のサイクリストとしての原点になっている。*4
小4の担任は無能だったため学級崩壊していた。そのため、スクールカーストでどちらかといえば中の下だった幼馴染すら私をいじめる方向に回った。女子によるいじめは前述のものが通常運転だったが、男子からのいじめも性的なからかいが多くなった。ストⅡの春麗やキャミイになぞらえるようなからかいをされる等、当時流行のゲームの女性キャラになぞらえさせられる象徴的ないじめが主で、変態扱いされることが少なくなかった。
担任もろともいじめられていたので誰も相談できる相手はいなかった。自身も担任いじめに加担しようとしたことがあるが実行に移さなかった。いじめられた担任は授業中に泣き出しその場で授業が中断したこともあるが、誰も担任に駆け寄る者はいなかった。おそらく児童側からは謝罪も何もなかっただろう。
この頃、昔あったコンビニでの覗きが店員にバレて警察に通報されて補導ののち両親から叱責される。母親からは「育て方間違えた」と言われ、父親からは「お前は病気だ」と言われる。家からも居場所が完全になくなった。その後、母親からは外出の際に「変な気起こすなよ」等と釘を刺された。
小5 - 6の担任は体育会系の男性だった。女子の転校生に惚れ、体育の授業で彼女の後ろを走るようにしたら担任に言いつけられてこっぴどく怒られ、翌日は怒られないように彼女を抜いたら意味不明な告げ口をされて怒られた。人生初の冤罪である。
彼女は元々パリピだったので相手にされなかった。
また、学校に更衣室はなかったのでプールの着替えは6年間ずっと教室で男女一緒だった。彼女と席が近かったこともありたまたま全裸が見えてしまったことがある。
この頃になると女子からのいじめは陰湿なものになっていた。家庭科の調理実習では女子の間で「エタイに食品を触らせるな」とお触れが回って徹底され、男子は女子の総意を汲み取って我関せずの空気を突き通し、班の中で孤立させられる形で授業への参加を拒絶された。このいじめに担任が気づくことはなかった。同様に、食べ物に関することは私が触れることを許さない空気がクラスで罷り通っていた。そのくせ給食の時間は体の良い残飯処理班にさせられていた。私が感情から逃れる生存戦略として食べることが確立していたため、断る発想は最初からなかった。
小5当時流行っていたアニメ「こどものおもちゃ」にコンドームなるものが登場。それが何かを知らなかった私はクラス中で「コンドームって何?」と聞きまくった。
それを見ていた担任がその日の道徳の授業を急遽、性教育に変更した。授業終了後、私は多数の男子から「お前のせいで(先生がいない)自習の時間が潰れただろ、ふざけんな」と責められて総スカンを喰らった。
小学校低学年から、人の名前を呼べない・一人称を使えないという対人恐怖が顕著だった。対面では「俺/僕」が使えず「自分」に退避し、SNSでもしばしば「ワイ」を用いるなど、主体を名乗ること自体への羞恥と恐怖が恒常化した。これは、存在そのものが拒否・嘲笑・排斥に晒される予期(予期不安)と結びつき、他者接触を「存在否定のリスク」と等置してしまう学習の早期定着を示している。
女子同級生や女性教員によるからかい・嘲笑・冷笑的態度、実技授業での扱いなど、身体的・精神的暴力に先立つ言外の評価下げ(象徴的暴力)が芯に残った。本人の主観では「人間扱い以前に、モノとしてもカウントされない」感覚が形成され、尊厳の出発点が失われた。 この「モノ以下」感は、のちの性行動様式を規定する決定因となる。一般に“性犯罪=他者のモノ化”と表現されるが、本人の自己理解では「自分をモノ“未満”から、せめてモノへと“昇格”させる生存戦略」として覗きが成立した、と位置づけられている。
小学校高学年になるにつれ、羞恥・恐怖・承認飢餓が高まる中で覗き行為が反復される。「罪悪感が育たない/感じにくい」ことへの困惑と、「やめたいのに最初の一杯が“いきなり覗き”」という構造(一般的な性依存に見られる段階的導火線=ポルノやマスターベーション→アプリ→出会い…が介在しにくい)ゆえ、回避可能な外的トリガーが特定しづらい特徴があった。 当時の自己像は「自分を保障する外枠=自我」がないまま恐れと渇望で駆動し、“見られるに値しない自分”が“見る側”に回ることで一時的に主体感を捏造する、という矛盾した補償行為であった。
中学でも半分は小学校時代の面子だったため、いじめは続いた。科目に英語が入ってきたことから、学習内容をいじりやいじめに使われることが多かった。現在進行形を習うと「I am playing SEX!」と耳元で囁かれて赤面するのを面白がられたりしていた。英語でこれだから保体は言わずもがなである。男子からの変態扱いは女子からのヘイトを助長するものであった。
当時、爽健美茶を飲んでいただけで男子から変態扱いされたこともある。当時は新発売だったことから上半身裸のタレントが胸をこんな具合に隠してCMソングを歌うという刺激的なものだった。クラスの男子の間で瞬く間に変態のレッテルを貼られた。*5
そういった背景から、別の小学校から来た話したこともない別のクラスの女子からも露骨に嫌われていた。何も知らないぶん、同じ小学校より別の小学校出身の女子のほうが露骨に私をヘイトしていた。
覗き行為は続いていた。母校の小学校に更衣室がないので児童のプール解放日は体育館で着替えることになっていたが、仕切りも何もなかったので外から覗くことが可能だった。それはすぐにやめたが、小学校時代の補導の経験からトイレ以外を覗くことを模索しており、トイレの足りないイベントを自分の足で探して覗きスポットを開発することに明け暮れていた。
ASDが球技と相性が悪いことを知る由もなかった私は女子モテを期待してテニス部に入部した。しかし部活自体は真面目にやるもののまったく上達せず、知的障害の同級生と組まされて校内最弱ペアとして噛ませ犬になってしまった。後輩にも徹底的に舐められ、最後まで組まされる相手は何かしら障害持ちで余った後輩などだった。
中1の頃、ペアを組んでいた知的障害の同級生が部室の鍵を紛失した責任を押しつけられたことがある。当時3年生は既に引退していて2年生部員がいなかったため1年だけの部活で、まあ恐れるものが何もなかった故の所業なのだろうと思うが、この理不尽さに何もできなかった。
中3夏の偏差値は47だったが、受験勉強に力を入れて地元の偏差値63の進学校に逆転合格した。これには周りが何も言えなかったが、逆に言えば勉強に逃げるしかなかったと言える。
高校では流石にいじめられることはなかったが、問題行動がなくなることはなかった。トイレを除く以外の性行動を模索しており、男子トイレの個室に籠って女子トイレに聞き耳を立てたり、床ふき掃除のドサクサに紛れて女子のスカートを覗こうとしたりした。なお後者は高2の時の担任にバレて呼び出され、その後体育の着替えが突然男女別になり罪悪感を植え付けられる形となった。
また、休み時間には図書室で借りた時刻表を教室で読むことが日課になっていたが、そのドサクサに紛れて、パンツ丸出しで談笑する女子の前を横切るなど露骨な行動に出ていた。当然バレていた。あるいは自転車がパンクして電車通学の時などは階段での覗きもやっていた。
高校でも部活はテニス部に所属したが、後輩に舐められるのは変わらなかった。
高3の春、中学時代の同級生の女子から話を聞いて信仰を始めることとなった。しかし当時入った組織が人を追いつめる組織だったため、集会に参加せず未活動に近い状態だった。嘘の門限で逃れようとしてあわよくばフェードアウトするつもりだった。しかし当時の先輩に理詰めされ、もしかしたら訴えられるかもしれないとの恐怖で信仰を続けるのを断ることができず、そのまま信仰を続けることになった。
大学時代はコミュニケーションが上手くいかず、軟式テニスサークルに入るものの場の空気に馴染めずすぐに幽霊部員となった。他には鉄道研究会に入っていた。この頃には信仰上の集まりにも半ば無理やり参加させられるようになっていて、嫌々活動することになってしまった。 大学での人間関係は順調に見えたが、サークルでの布教活動をすることになってしまう。組織に恵まれなかったため、どうしてもやらないと帰れない空気になり、断れば理詰めされるので仕方なくやっていた。しかし高3の入信当初に学校での人間関係が軟化する利益を得ていたため、信仰自体が悪いのではないとどこかで気づいていたので信仰活動を断ることはできなかった。
経済的には常に困っていた。大学1年の最初の半年でバイトの面接に13連敗して貯金が尽き、携帯を強制解約されるほど困窮した。ようやく受かったバイトは営団地下鉄の通勤対策だった。月4万程度だったので他にもバイトをしようと面接を受けたがまったく受からなかった。緊張もしないし普通に応対して普通に落ちていた。いまだに理由はわからない。
サークル(鉄研)内では私を排斥する動きがメンバーの共謀で進められ、ついに退会処分となった。サークルメンバーのやり方は、携帯のメアドを2chのURLを模したものに変えて匿名の脅迫メールを送りつけたり、わざと私を避けるなど常軌を逸しており、そこには何の正当性もなかった。私は鉄研のやり方を強く詰り、退会処分の取り消しを強く要請したが聞き入れられなかった。
その後、信仰は嫌ではないが組織は嫌で仕方ないので我慢して信仰するしかない日々が続いた。先輩の理不尽な指導で趣味のポケカを辞めさせられ、その組織を信仰で脱出する方法を模索しながら活動するしかなかった。
サークル(鉄研)を追放されたことで居場所を失い、現実から逃げるように高校時代から立ち読みしていた「ラブひな」のアニメを見るようになる。この頃はちょうど「魔法先生ネギま!」の連載が始まった頃で、一気に赤松健作品に傾斜して二次創作SSやイラストサイトの巡回を始めたが、ラブひなファンサイトが次々に閉鎖していくことに焦燥感を感じていたところ、宮崎のどかのファンサイトを見つけたことからネットを通じて他人と交流することにハマり、またアニメや漫画を楽しむだけでは飽きたらなくなって自らもファンサイトを開設して二次小説を書き始めた。リアルの人間関係を見限り、ネットの交友関係が唯一の居場所になった。大学でも講義そっちのけで暇さえあれば小説を書き、オフ会にも参加してファンサイト管理人どうしの交流に明け暮れた大学生活を過ごした。
性的な逸脱行動はさらにエスカレートした。まず法律を調べ、どうすれば覗きを合法的に行えるかを最重要項目として情報収集していたところ、2ch(PINKちゃんねる)に辿り着いて入り浸っていた。そして都内某公園の花見会場や某花火大会が野外覗きのスポットになっていることを知り、それ以来30代前半までその覗きがライフワークになった。即ち年2回のアディクションへの耽溺が生きる気力になった。
しかしそのうちそれだけでは足りなくなりPINKちゃんねるを徘徊していると、聞いたことのある漫画やアニメのタイトルが目に入った。もしやと思い「ラブひな」や「魔法先生ネギま!」のタイトルを検索すると簡単に見つかり、そのスレッドを開くと馴染みのあるキャラクターが原作では絶対に見せない性行為をしている文章の描写が目に入り、気がついたらスレッドの住人になっていた。推しの書き手も見つけて続編を楽しみにしていた。例によってそれだけでは飽き足らなくなり、ネギま!アニメ1期で原作改変によりヒロイン(神楽坂明日菜)が死を遂げる到底納得しがたい急展開にブチ切れ、アニメの展開を再定義したハッピーエンド小説をスレッドに書き込んだ。スレッド内ではたいへん賞賛され、感動してくれる人まで現れた。それからエロ小説を書くようになったが、自身の女性不信の影響から描写できた性行為はペッティングが限度で、セックスシーンを書くことができなかった(成人したばかりの大学生なので当然といえば当然ではあるが)。
就活はまったく上手くいかなかった。そもそも身だしなみという概念が理解できなかったこと、経済的に困窮していて身だしなみを整えることすらままならなかったのが一因にあるが、そもそも趣味よりも身だしなみを優先して金を使う人間は人生の楽しみがない馬鹿だと思っていた。私服は当時のオタクによくあるチェックのネルシャツのワンパターンだった。無論コーディネートという概念はなかった。
当時から風呂をキャンセルする傾向が顕著にあり、
内定がないまま大学4年の2月を迎え、ブラック企業の研修に半年間無給で奉仕させらせそうになり完全に逃げ場がなくなってしまった時に火事場の馬鹿力で信仰に取り組み、大学の就職課で見つけた求人の面接を通過して二次面接一発内定を手にしてブラック企業の研修を脱出した。大学の卒業式1週間前のことだった。
給料は手取りで約25万円、人間関係もオタク気質の人が多い恵まれた職場だった。また、大学時代にアニメを見始めたことでレンタルDVDのリッピングとエンコードをかじっていた経験が内定獲得の大きな要因になった。入社後はAV動画編集やサムネイル、キャプション制作を主な業務とすることになった。これが私の音MAD作者としての原点である。